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二見家住宅

去川のイチョウの帰りに、去川関所御定番「二見家住宅」によって見ることにしました
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二見家住宅は南九州の民家に見られる「二棟造り」の特徴を取り入れられています
左の棟が「居室棟(ナカエ)」右の棟が「座敷棟(オモテ)」
古文書には「去川御仮屋」と記されています。「御仮屋」は薩摩藩では役所を意味します関外四ヶ郷に建物の普請や掃除が割り当てられていました

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ここから二見家の殿様が去川のイチョウの黄葉を眺めておられたとか、同じ場所から眺めました
地元住民 のボランティア(緑の洋服の方)による、住宅のガイドも行われていました
座敷棟は、薩摩藩主など去川の関を通行する上級身分の者を宿泊・休憩させるための建物でした
嘉永6年(1853年)薩摩藩主島津斉彬は、領内巡見のため高岡郷へ向かう途中、二見家住宅で休憩しました

そして居室棟
なんか懐かしい~祖母(母方)の家は幼い頃、囲炉裏もありました、天井もこんな感じだった
土間、かまどの前で祖母の夕飯の準備を見てた・・・(懐)
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去川の関跡
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「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板から、
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年~1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。天正年間(1573年~1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日。

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「去川小学校」保護者からの「大規模校で学ばせたい」をの希望で2009年3月に廃校になったそうです
2008年度の児童数は14人。第1・3学年の児童数はゼロで今後も児童数の増加が見込めないことから、2008年3月から保護者から「多人数の教育」を望む声が挙がった。宮崎市はこれを受けて2008年9月の市議会(平成20年第4回定例会)で「2009年3月末の廃校」を目的とした条例改正案を提出。9月18日に改正案が可決され去川小学校の廃校が決定した。去川小学校の児童は2009年4月から高岡小学校へ通学する

by rei221122 | 2010-12-06 09:18 | ドライブ | Comments(2)
Commented by ぱふぱふ at 2010-12-06 15:42 x
昔の建物がなぜか残されるようになって
懐かしいところ、不思議なところさまざまですね
そこで見る暮らしぶりと今の暮らしぶりを比べても
意味がないかもしれないけれど今は贅沢三昧だって思うね(笑)
Commented by rei221122 at 2010-12-07 08:51
☆ぱふぱふさん☆
 12/6御誕生日おめでとうございます~♪
 ぱふぱふさんのブログで一番最初だったのでチョッと気がひけて
 で・・・遅れてしまいました。(でもでもおめでとうございます!!)
 
 懐かしい~でも小さかったから鮮明には覚えてませんが
 トイレも外にあり夜寝る前祖母に付いていってもらった事
 そして夜空の星をみたこと~懐かしい(笑)それはそれで
 生活を楽しんでた様な~でもほんとに便利になりましたねぇ